株とCFD


配当落ち


旧制福岡県立修猷館中学校より海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。多数の在英経験で洗練された身のこなしが元帥伏見宮博恭王海軍大将の目に留まり予備役編入後に伏見宮家別当として従事する事になったが、鳥巣自身の年譜を見ても一目瞭然の様に鳥巣は親英的で日英同盟全盛期を知る典型的な対英米協調条約派の思想の持ち主であり伏見宮の言行動には極めて批判的見解だった。 鳥巣は終戦後に急性肺炎が原因で亡くなったが物不足の当時故に現在であれば薬物投与等の延命処置で助かったと思われる。 1904年、日本との戦争状態にあったロシアは、海上戦力で日本海軍に対抗するため、バルト海に駐留していたバルチック艦隊を極東へ向かわせることに決定した。10月15日、ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊はリバーヴァ軍港を出港した。 日本は世界の海の支配者であるイギリスと同盟関係にあった(日英同盟)。そのためロシアは、日本艦隊が極東までのルート上のどこで奇襲攻撃をかけてくるかわからないと想像した。ロシアは世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させた。だがこれが裏目に出た。エージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から情報を送ってきたのである[1]。 デンマーク海峡を抜けて北海へ出たバルチック艦隊は神経過敏に陥っていた。バルト海を出ればイギリスの制海権下である。ロシアの雇ったエージェントはこの海域でも日本の水雷艇が待ち伏せしていると報告していた。 10月21日夕刻、バルチックFX は濃霧の中ドッガーバンク付近を進んでいた。この季節、朝晩の北海は濃霧に覆われることが多かった。工作船「カムチャッカ」が単艦で100キロあまり先行していたが、機関が故障したため遅れを生じ行方不明となっていた。21日午後8時45分、その「カムチャッカ」から旗艦「スワロフ」へ、「われ、水雷艇に追跡されつつあり」との無線通信が送られてきた。 22日午前0時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴り、次いで「水雷艇だ、魚雷攻撃だ」「駆逐艦だ、我々はやられた」という声が聞こえてきた。砲手は恐怖に襲われ暗い海面に向けてやみくもに発砲した。艦橋からは敵らしき多数の灯火が確認され、互いに発光信号を送っているように見えた。数隻の小型汽船が探照灯に照らし出され、うち1隻が戦艦「アレクサンドル3世」へ向けて突進してきたようだった。「アレクサンドル3世」と「スワロフ」は小型汽船に対して砲弾を浴びせかけ、これを撃沈した。 ロジェストヴェンスキーはようやく何が起こったかを認識し、狂ったように怒鳴り続けた。「よくもこんな馬鹿なことがやれたものだ、よく見ろ、あれは漁船だ。」[2] ドッガーバンクでは漁業が盛んで、イギリスのハル港から40から50隻のトロール船が毎日のように出漁していた。漁船は100トン程度で、それぞれ8、9人が乗り込んでいた。漁船団は確かに「にわとり艦隊」(Gamecock fleet)と呼ばれていた。だが言うまでもなく非武装のFX である。 この日いつものように「にわとり艦隊」がドッガーバンクで操業していると、遠くに軍艦が見え、次いでいきなり発砲してきた。漁民たちは驚き、「私は、自分たちが何者であるか示すために大きなカレイを指し示した。同僚はタラを示した」[3]など努力したが無駄であった。漁船は魚網を切断して逃れようとしたが、運悪くロシア艦隊に接近しすぎた「クレイン」号が激しい攻撃を受けて沈没し、船長と乗員1人の合計2人が死亡した。「マイノ」号でも6人が負傷し、うち1人が半年後に死亡した。 ロシア艦隊も落ち着きを取り戻した。戦艦「アリョール」は6インチ砲17発ほか砲弾500発を発射していた。「アリョール」から発射された砲弾のうち5発が防護巡洋艦「アウロラ」に命中し、従軍僧が片腕を失う重傷を負って後日死亡したほか数人が負傷した。装甲巡洋艦「ドミートリイ・ドンスコイ」も被害を受けた。 漁船が半旗を掲げてハル港へ帰港すると群衆が押しかけてきた。さらにまずいことに、バルチック艦隊は犠牲者を救助しようともせず立ち去ってしまった。トラファルガー海戦記念日に発生したこの事件に対してイギリス世論は激高した。群衆はトラファルガー広場に集まり、野蛮人どもに対して断固たる措置を取るよう要求しデモを行った。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と非難し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と報告書の余白に書き加えた[4]。 一方で日本の株は上がった。ハル市で死亡したFX の葬儀が行われた日、時機を失せずに東京市長尾崎行雄から弔電が送られてきた。駐英日本公使の林董は、ドッガーバンクでの事件に日本人はまったく関与していないと公式に声明を出した。 ドーバー海峡をそ知らぬふりで通過したバルチック艦隊に対して、イギリス海軍は巡洋艦隊を出撃させ、スペインのビーゴ港まで追尾させた。イギリス政府はスペイン政府に対して、バルチック艦隊へ石炭はおろか真水さえも供給するなら中立違反と考えるとの警告を送り、英露間に緊張が走った。 ビーゴ港において、ロジェストヴェンスキーはバルチック艦隊の行動について、「海面に2隻の外国為替 が存在していたために偶発的に生じた」と説明し、「別の行動を取ることが不可能だったと思われる環境」で生じた犠牲者に対して「衷心から哀悼の意を表する」[5]と謝罪を行った。ともかくイギリスでは一時的な興奮は収まった。 事件の認定のため、12月にパリで国際審査委員会が開催された。そしてその審査の報告書では、「カムチャッカ」が事件の前にも数隻の外国船に対して発砲していた事実が明かされ、責任の所在や程度がそこで言及された。[6] ロシア政府は死亡または負傷した漁民への補償として6万5,000ポンドを支払い、かつ沈没したトロール船の代わりに新しい船を提供することに同意した。

Menu

    • バリューアプローチ
    • バリュー・ファンド
    • ハンセン指数
    • 配当
    • 配当落ち
    • 配当性向