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末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった兵科と機関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても東郷は改革案に反対した。結局、この問題は終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。その他にも、第一種軍装を詰襟から英国式のダブルに変更する案が出たが、「この服(詰襟を指す)で、日本海海戦に勝ちました」との東郷の一言で、変更の話は立ち消えになった。 壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して外為 を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。 昭和9年(1934年)、87歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際にはイギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦ケント、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦のヒューストンやフランス、オランダ、イタリア、中国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた[6]。 東郷の遺髪は英海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)に厳重に保管されている。 子孫には海軍兵学校外為 で少将になった息子の東郷実、その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫には防衛大学校卒の幹部海上自衛官がいる。係累の東郷良尚は日本ユニセフ協会の副会長である。 東郷元帥記念公園(東京都千代田区)死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し東郷自身は生前乃木神社建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、止めて欲しいと強く懇願したが、結局神社は建立されている。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。 晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。海軍省内では伏見宮博恭王軍令部総長とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障碍とみなされた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐している。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。 錬度を上げることに熱心で聯合艦隊解散の辞に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。 昭和天皇は学習院時代、院長であった乃木希典については印象深く、尊敬もしていると述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。 東郷元帥の名を冠した「東郷鋼(はがね)」という鉄鋼製品が作られていた事から、東郷元帥に反発する海軍内の佐官や将官の手で「東郷バカネ」という地口が作られ、流布したという。ただ実際は海外鋼輸入問屋河合鋼鉄のライバル流通が考え出した洒落という説もある。くりっく365 の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である[7]。 「長年ロシアの圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、フィンランドでは東郷の肖像をラベルにしたビールが売られていた」といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、これは1970年から1992年まで製造され2003年に復刻版製造された「提督ビールシリーズ」の一つで、山本五十六、また日露戦争で東郷と戦ったロシアのステパン・マカロフ、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー両提督も同じシリーズのラベルになっており、フィンランドで特別に東郷平八郎が人気絶大といった事実はない。東郷のラベルのものは1971年製造開始された。なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、オランダで製造されているプライベートビールに日本の会社がフィンランド「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルをつけているものである。 死後、私邸が東郷元帥記念公園として使用される。現在でも私邸に置かれていた獅子像などが残っている。 一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。ワラント なら死なないから」と発言し、陸軍大将であった乃木希典院長を憮然とさせたというエピソードがある。 東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した甲賀源吾を軍人として尊敬していた。また、明治新政府によって不動産投資 として斬首に処せられた小栗忠順の名誉を後に回復している。日本海海戦でバルチック艦隊を破って後、山村で隠棲していた彼の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗上野介が生前に建造した)横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。 東郷の国葬に併せて米英両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。アメリカからはウィリアム・スタンドレイ海軍作戦部長のメッセージがNBCから、イギリスからはボルトン・イヤーズ=モンセル海軍大臣のメッセージが英国放送協会からそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうというハプニングが起こった。この模様が全国に生中継されてしまった日本国内では、アメリカ側の選曲を問題視する声が一部で出たという。 ワシントン軍縮条約の結果主力艦の保有比率が対米英6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」) 日本海海戦時カール・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は5倍と10倍兼用で、発売されて間もない1904年(明治37年)小西本店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。 元国連事務総長のブトロス・ガリは日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。エジプト出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。 水生昆虫のカワゲラにはトウゴウカワゲラ属(Togoperla )がある。これは、チェコ人昆虫学者Frant Klapálekが東郷平八郎にちなんで名づけたとされ、他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)と名づけられたカワゲラ属が存在する。 東郷が亡くなった1934年にはブラジルでカステロエス会社が東郷へのオマージュとして『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で『聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス「元帥」を日本の皆様に捧ぐ』と書かれていた。

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