バリューアプローチ
初代連合艦隊旗艦にふさわしく、松島にはいろいろなエピソードがある。 明治27年(1894年)黄海海戦では鎮遠の30.5cm主砲弾が直撃、装薬が引火爆発して瞬時に90名余の死傷者が出た。これは黄海海戦における日本側の犠牲者の約半数に当たる。燃えさかる艦上で瀕死の重傷を負いながらも「まだ定遠は沈みませんか」と上官に訊ねた三等水兵(三浦虎二郎)の話が、のちに軍歌「勇敢なる水兵」の元となる。 明治35年(1902年)米国人が南鳥島の領有を試み占領。松島は南鳥島に派遣され、海軍陸戦隊を上陸させてこれを牽制。後に英国の干渉と日米協議により日本領であることを確認させた。 明治41年(1908年)の澎湖諸島沖爆沈事故では、陸軍元帥で元老の大山巌公爵の嫡男・大山高候補生が艦と運命を共にしている。日露戦争後の平時、しかも海軍兵学校卒業直後の悲劇だった。高は巌が再婚後40代になってから恵まれた待望の長男で、成長すると「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だった。令息ご無念の報に接した巌の落胆ぶりは、端で見ていても気の毒になるほどだったという。 明治43年(1910年)鎌倉・七里ヶ浜で逗子開成中学のボートが沈没、乗っていた生徒12名全員が死亡するという海難事故があった。そのとき沈んだボートは、台湾で引き揚げ、運ばれて寄贈された松島のカッターであった。死亡した少年たちを悼んで「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の嶺)が作られた。 前述の建造計画の根本からの失敗、戦闘中の大損害や株 、そしてこのボート沈没事故など、最初の計画から沈没後まで、良運に恵まれたとは言えない艦であった。 松島型防護巡洋艦(まつしまがたぼうごじゅんようかん)は、日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の巡洋艦。三景艦(さんけいかん)の愛称で知られる。 松島型防護巡洋艦は3隻建造され、それぞれ松島(まつしま)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)と命名されたが、日本三景である陸奥松島、安芸厳島(宮島)、丹後天橋立から名を取ったことが三景艦と呼ばれた所以である。 三景艦は艦名の優雅さから日本国民に親しまれたが、親しまれた株 はそれだけではない。理由はあと2つある。 三景艦が建造されたのはまさに大国清との衝突が避けられない時期であった。中でも清国北洋艦隊の主力である戦艦鎮遠(ちんえん)、定遠(ていえん)の2隻は、当時世界最大級の主砲である30.5cm砲を4門も備え、日本にとって大きな脅威であった。三景艦は、この戦艦2隻に対抗するためにフランス人造船技官エミール・ベルタンの提案により誕生したものである。その主砲はたった1門ながら32cm砲で、口径では鎮遠、定遠を上回った。艦体は小型で装甲も貧弱であったが、予算の乏しい日本としては一生懸命背伸びをした装備であり、それだけに日本海軍及び国民がかけた期待は大きかった。これが理由の2つ目である。 理由の3つ目は、日清戦争での海上主力対決となった黄海海戦において、三景艦を主力とした連合艦隊が北洋艦隊を破ったことである。三景艦主砲の32cm砲は全く役に立たなかったが、副砲である速射砲と、高速を出せる艦隊の運動性の高さを生かし、撃沈はできないまでも攻撃能力をほとんど奪ってしまった。続いて威海衛攻撃で北洋艦隊を全滅させ、三景艦は見事に期待に応えたのである。 三景艦はその後、主力艦の座を戦艦に譲った。日露戦争では、3隻に日清戦争時に鹵獲されたかつてのライバル鎮遠を加えた4隻を中心に、第三艦隊第五戦隊を編成した。主に、哨戒や掃海で活躍した。日本海海戦にも参加、バルチック艦隊を捕捉・触接し、敵艦隊の編成や動向を逐一通報する任を担った。 余談だが、三景艦は本来4艦建造される予定であった。しかし、これらがipo する砲に問題があり、(詳細は松島参照)3隻で打ち切りとなり、3及び4番艦を国内建造するため招いたベルタンを憤激させ、契約が残っているにもかかわらず帰国すると言うこととなった。なお、4番艦の名称は不明だが、一説には、4番艦の代わりに建造された「秋津洲」がその名前と言われている。 ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ(ロシア語:Степа́н О́сипович Мака́ровスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ;ラテン文字転写の例:Stepan Osipovich Makarov、ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日) - ユリウス暦1904年3月31日(グレゴリオ暦4月13日))は、ロシア帝国の海軍軍人、海洋学者。ロシア帝国海軍中将。ロシア帝国科学アカデミー会員。 ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日)は、ロシア帝国の領土だったウクライナのヘルソン県ニコラエフ(現在のムィコラーイウ)で海軍准士官の家庭に生まれる。父の転属に伴いニコラエフスク・ナ・アムーレに移り、1858年、ニコラエフスク航海士学校に入学する。1865年、航海士学校を首席で卒業したが、父の希望により航海士ではなく、海軍士官候補生となる。 1867年、太平洋艦隊に配属される。1872年にバルト艦隊、1876年に黒海艦隊勤務となる。1877年、露土戦争に水雷艇母艦「ヴェリーキー・クニャージ・コンスタンチン」の艇長として従軍する。マカロフは、ロシア海軍における水雷艇運用・戦術論に関する第一人者のひとりであり、露土戦争において、自分の水雷艇戦術理論を実践に移した。すなわち、1877年1月16日トルコの仮装巡洋艦「インティバフ」に対して魚雷による世界最初の対艦攻撃を行った。1880年から1881年、アハルテキンの中央アジア探検隊に参加。1881年から1882年には蒸気船「タマーニ」、1885年にはフリゲート「クニャーシ・ポジャールスキイ」の艦長を務めた。 1886年にはコルベット「ヴィーチャシ」の艦長に就任し、1886年から1889年と、1894年から1896年の2回に渡って世界一周航海に出ている。2度に渡る航海では、総合的な海洋調査を実施し、研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表した。 1890年、少将に昇進し、個人向け国債 艦隊最年少の提督となり、1891年、海軍砲術主任監察官となる。1894年、戦艦「ニコライ1世」に座乗し、1895年、極東に赴任、艦隊司令長官に就任する。1899年と1901年に北極探検を実施し、この時砕氷船を構想し、世界最初の砕氷船「エルマーク」の建造を命じている。 最期の乗艦となった戦艦「ペトロパヴロフスク」1904年、日露戦争が起こると、旅順に奇襲攻撃を受けた責任を追及されて解任されたスタルク司令長官の後任として、2月24日、太平洋艦隊司令長官に就任した。「マカロフ爺さん」と将兵にあだ名され、ロシア海軍随一の名将と名を馳せていたマカロフの着任は日本側にとってはひとつの脅威であった。しかし、3月31日、連合艦隊による旅順封鎖作戦で封鎖のため敷設した機雷によってマカロフが座乗していた戦艦「ペトロパヴロフスク」は爆沈し、マカロフは避難しようとしたが間に合わず、将兵500人と共に戦死した。 マカロフを顕彰する記念碑が、資産運用 であるウクライナのムィコラーイウやロシアのウラジオストクにある他、いくつかの艦船にはアドミラル・マカロフ(マカロフ提督)の船名がつけられている。 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。 当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。 この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こした。 なおセオドア・ルーズベルトはこの条約仲介の功が評価されて、1906年(明治39年)にノーベル平和賞を受賞している。